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谷の平地に降りた。 こんなことを3度ほど繰り返しただろうか。
普段の何倍もの花粉を吸い込んだはずだが、ぼくの肉体はこれといって変化はなかった。 むしろ、ひどかった鼻水の出方が弱くなったように思った。
もしかしたら、ショック療法が効いたのかと、ぼくは内心でほくそ笑んだ。 悪魔に襲われたのはその日の夜だった。
鼻汁がとめどなく流れ、目はかゆさを通りこしてヒリヒリしはじめ、鼻腔が腫れあがって、ついに鼻で息ができなくなった。 やがて顔まで腫れあがり、目の周辺がむくんで開かなくなってしまった。
のたうち回りながら、ぼくは死ぬんじゃないかと本気で思った。 7転8倒の苦しみで、ぼくは朝まで眠れなかった。

目を洗い続け、鼻腔を洗い続け、ようやく落ち着いたのは2日後だったと思う。 今から考えると、ぼくのひどい花粉症はあれが原因だったのかもしれない。
そのときぼくは、ぼくをスギ林に連れて行った仲間を恨むより、ショック療法なんてものを信じた自分を呪った。 そして、あれだけ花粉の中を飛びながら、ちっとも症状がでないその仲間をうらやましくも思ったりした。
花粉症になった頃は、他の病気で体調を崩していたこともあって、もっぱら漢方薬に頼っている。 。
もう十数年前のことで、当時の記録はないが、おそらく小青竜湯が中心だったようだ。 東洋医学を専門とする病院に通院していたから、薬局などで市販されている頚粒状のものではなく、飲むたびに煎じる本格的なものだった。
煎じる道具もけっこう高い(といっても2万円弱だが)。 もちろん土鍋で煎じてもいいのだが、火の加減が大変で、ちょっと目を離したスキに煮詰まったり焦がしたりしてしまうのだ。
この煎じ器は、時間を設定すれば自動的に止まるようになっていたから実に重宝だ。 しかし、これも4カ月ほどでやめてしまった。
治療費が意外に高価だったことや、煎じると強烈な臭いがするといった理由はあったが、むしろ無精なぼくが、手間暇かかる面倒なことに嫌気がさしたというのが本当のところだろう。 マスクはせっせと買い集めるのに、こういうことにはすぐ飽きてしまうのだから、どうも自分自身がよくわからない。
このあとの治療は、先にも述べたように、しばらく民間療法に頼ってみたが、どれも漢方以上にぱっとしないものだった。 ということで、抗ヒスタミン剤などの合成化学薬品に頼ることにしたが、正直にいえば、》飲まないよりはマシといった程度で、今でもあまり信用していない。
個人差はあると思うが、ぼくにはあまり効かないようなのだ。 2、3年前の春だった。

那須連峰が一望に見渡せる福島県のある温泉地に行ったことがぼあった。 抗ヒスタミン剤は、花粉が飛散する前から飲んでおけば薬の効果が高いといわれ障る。
その年は抗ヒスタミン剤を2カ月も飲み続けていたから、つい油断したのだろう。 周囲にはスギ林も少なく、それに澄んだ空気の中では花粉症も、心配することはないだろうと思ったのが迂闇だった。
桜の開花が花粉症の時期に重なるから、ずいぶん前から花見などしなくなっていた。 満開ではなく7分咲きだったが、目の前で桜が咲き誇っているのだ。
久方ぶりの桜見物だ。 ぼくはマスクもメガネもせず、溌刺とした気分で歩き回った。
十数年ぶりの花見に、ぼくの気持ちはゆるみっぱなしだった。 悪夢の日を迎えたのは翌日だった。
自宅に戻ったぼくは、鼻づまりがひどいのに気がついた。 その瞬間、まるでダムが決壊したように鼻水がどっとあふれ出た。
涙が止まらず、目も開けられない。 そのうえ、鼻も目もかゆく、じっとしていられなかった。
洗浄液で目も鼻も洗ったが、いったんこうなると、簡単には治ってくれない。 体力も気力も使い果たし、発狂するような日が2日も続いた。
というわけで、以来ぼくは、外出するときはマスクとメガネを絶対に手放せなくなったのである。 長い花粉症戦争で行き着いた結論、それは、花粉症は花粉と接触することで発症するのだから、飛んでくる花粉に触れないようにするのがいちばんという、きわめて当たり前のことだった。

もしも減感作療法なるものに効果があったとしても、ぼくにとってそれはおまけのようなものだと思っている。 花粉に触れないという意味で大事なのがメガネだ。
花粉は重いため、風に運ばれた花粉が角膜に入るときは弾丸のようにまっすぐ飛んでくる。 イメージすれば、目に突き刺さるという感じだろう。
だから、薬の量販店で売られている透明プラスチックを成型したようなメガネでも、花粉をかなりシャットァゥトできるのだと思う。 理論的にはこれでも充分で、縁に花粉が回り込まないように防御壁のようなものがついたメガネなら、あるいは7割ぐらいカットできるのかもしれない。
もっとも、説明書にはどの程度花粉をカットするのか書かれていないから、この数字はぼくのカンである。 「Kメガネ」と称して売られている2、3千円程度のメガネは、たいてい工業用保護メガネを製造するメーカーで作られている。
かけてみたらわかるが、これから工事現場にでも行ってきます、といっているようなメガネなのである。 これをかけて出かけようとするだけで気分が萎えてしまう。
それに、レンズが粗雑だから像がゆがんで見える。 長くかけていると乗物酔いをしたように、気分が悪くなってしまうのだ。

別におしゃれなメガネをほしいとは思わないが、せめて人の目を気にせずに街を歩けるメガネがほしい。 それなら、オーダーメイドで作ってもらうのが一番だと思い、あるとき新宿のメガネ屋さんに飛び込んだことがあった。
たしかに品物としてはよかったのだが、値段が5万円と聞いてびっくり仰天。 年に2カ月ほどしかかけないのに、5万円という値段にはさすがに陰路した。
買おうかやめようかと迷っていたとき、すぐそばに透明サングラスがあったのに気がついた。 スキー用のメガネに似て、顔に合わせて湾曲しているが、レンズ部分が透明なのだ。
鼻梁のあたりを少し調整してもらってかけると、これが顔にぴったり。 よし、これで充分だと納得したぼくは、迷わず買った。
1万円だった。 ただ、サングラスをかけてマスクをかけると、やはりいかがわしい格好になってしまう。
これで人と会うのはやはりまずい。 そのとき、電車の中や街中など、どう見られようと仕事に影響しないメガネと、仕事中に奇っ怪な印象を与えないメガネとに分けないといけないと気づいた。
そこで、普段からかけ慣れているメガネのうち(5つある)、いちばん眼を防護してくれそうなメガネを仕事中にかけることにした。 花粉症の季節になると、ぼくのカバンにはいつもこの2つのメガネが入っている。
いつの間に増えたのか、ぼくの部屋にはいまも十数種類のマスクがある。 別にマスク・フェチではないのだが、自然にこうなってしまったのだ。

花粉症専用マスクからサージカルマスク(外科用マスク)、それにSARS用の特殊なマスクといろいろで、なぜこんなに増えてしまったのだろう、と自分でも呆れている。 昔は花粉用のマスクといえば、ガーゼマスク一本だった。
その後、不織布のマスクが市販されると、密着性を高くするために立体型マスクなども登場し、さまざまな種類が販売されるようになった。

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